空手百話
はじめに
2025年9月、空手を通して生涯を過ごしてまいりましたが、門下の後進に伝えるとともに、お若い皆様のご参考に供したいとの思いから、このサイトを立ち上げました。最初に数編を掲げますが、今後は毎月二、三話ずつ追加していく所存です。お目に留まり、お読みいただければ幸いです。
百話に変更した事情
今回、「空手百話」と題して新たにサイトを開設いたしました。昔、「空手雑話」として XOOPS(ズープス)でサイトを運営していた時期がありましたが、XOOPSの衰退とともに閉鎖しました。これはその再立ち上げです。
当初「雑話」としたのは、何篇書けるか不明だったためですが、当時、金城先生から「百話」に改題するようご指導を受けていました。「百」は“多数”という意味であり、内容が八十であっても百二十であってもよいではないか、とのお言葉でした。
これから思いつくままに、月に二、三話程度を書き足していきたいと思っております。内容は狭い範囲のことではありますが、何かのご参考になれば幸いです。
聞き書きについて
このサイトでは、昭和二十年代に一世を風靡された金城裕先生からの聞き書きを中心に、金城先生の内弟子であり先輩で親友でもあった中村孝先生(武蔵野赤門道場創設者・第三代日本空手道研修会会長)、金城先生の愛弟子で修徳館々長の八田浩先生、また土屋秀男先生(小田原市・アルゼンチン空手道連盟創設者・全空連事務局次長・泊親会)などからの聞き書きを基に記しました。
敬称の使用について
個々の聞き書きでは、師匠や先輩には敬称を付して呼称しております(多くは直系の師筋や先輩方です)。また、外部の先生方で私が直接面識のあった方々については、すでに逝去された場合でも「先生」の敬称を用い、それ以外の歴史上の先生方については、原則としては敬称を省かせていただくこともありました。
この方法は、私が少年の頃にお世話になった右翼の巨匠・遠山満先生の高弟であった、千葉県成田市の加藤浦三郎先生(成田中学校に扁額を揮毫された方)に倣ったものです。加藤先生は宮本武蔵を尊敬し、それを小説に著した吉川英治も敬愛され、「宮本武蔵先生」「吉川英治先生」と呼称しておられました。
加藤先生は常に羽織袴の正装で、少年であった私にも深く頭を下げてご挨拶くださる方でした。戦後の暴力団右翼とは異なり、戦前の右翼は日本主義を掲げる漢学・国学の優れた学者の先生方でありました。教育勅語も同様です。
同じ趣旨で、首里手の創始者は「松村宗棍先生」(金城先生の口癖)、空手の創始者は「糸洲安恒先生」とお呼びいたします。
本来の空手とは
現代の空手は、明治三十八年に始まった「西洋式学校体操」としての唐手を出発点として、近代的な形を取りました。それ以前は「手(ティ)」と称され、武術と芸能が融合したような沖縄芸能であったと思われます。
これは「手」を残したいという関係者の要望(柔道や剣道も同様)があり、沖縄県視学官の公募に応じて学校教育に採用されたものです。軍事教練の前段階としての体力づくりを意図していました。公募に応じたのは糸洲安恒先生と東恩納寛量先生だったそうですが、採用されたのは糸洲先生の唐手でした。
唐手の名称
唐手という名称は、学校教育における教科としての「唐手」を意図して公募されたためと考えられます。沖縄芸能の「手」ではなく、教育科目としての体系を想定していたのでしょう。
それ以前にも「唐手佐久川(トゥーディ・サクガワ)」として唐手の名称は存在しましたが、「カラテ」と発音することで区別する意図があったと考えられます。この呼称には多少の抵抗もあったようで、唐手が教科として採用された際、嘱託教師糸洲安恒先生の助手を務めた花城長茂先生は、「空手組手」として“空手”の文字を用いました。
「船越先生が“空”に改めた」というのは俗説です。
空手から首里手へ
糸洲先生をはじめ高弟たちは、学校体操としての唐手とは別に、武術としての空手を模索したようです。その流れが首里手、すなわち松村宗棍の手への傾斜でした。
さらに剛柔流が唐手として加わり、戦後には名称も「空手」が一般化して、極真会館や上地流、さらにはキックボクシング系統なども取り込まれ、現在では混沌とした様相を呈しています。私はそれらについてほとんど無知であるため、本稿では私が学んだ首里系統の唐手(空手)に限定してお話しいたします。
したがって、ここでは剛柔流・糸東流・和道流など、唐手を源流としない、あるいは唐手から大きく変貌した流派については取り上げません。これらについての知識が皆無に近いため、どうかご容赦ください。
おわりに
私は金城先生の晩年の弟子であり、源流としての空手を十分に修得したとは言えませんが、独立後に金城先生から「金城門下を名乗る」ことを許可された唯一の門下生です。これには、先生の若いころからの愛弟子であった神奈川県藤沢市の八田浩先生の強い推薦があったと伺っております。
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