第一話 唐手の二系統と教育的転回
明治三十八年に誕生した唐手には、最初から二つの系統が存在していました。
その一つは、糸洲安恒先生が自宅(当時は伊江男爵家の墓地内)で、県視学官による「学校教科としての唐手募集」に応募するために準備した草案です。これを道場系統と呼ぶことができ、実際に男子中学校(現・首里高校)や男子師範学校で採用されたものを学校系統と称します。
この二系統については、土屋秀男先生が福昌堂の初期『月刊空手道』に記録しており、また金城先生にも確認したところ「その通り」とのご返答をいただきました。
両系統の主な違いは、次の二点に集約されます。
学校系統は「手刀受け」と「ナイファンチ立ち」。
道場系統は「掛け手」と「四股立ち」。
掛け手は取手(とりで=組技)を意識し、手刀受けは組手を念頭に置いたものと考えられます。四股立ちは取手の決着を意図し、ナイファンチ立ちは膝周囲筋の鍛錬を目的としたと見られます。いずれも子どもたちの教育を意識して設計されたものといえるでしょう。
このように、原初の唐手には当初から「学校系統」と「道場系統」(※土屋先生は「自宅系統」と呼称)の二系統が存在しました。さらに大正期に入ると、剛柔流唐手が商業学校に加わり、多様化をみせます。
唐手の教科化において、応募者の総数は不明ですが、糸洲安恒と東恩納寛量(ひがおんな・かんりょう)の両名が応募したことは知られています。最終的に採用されたのは糸洲先生の唐手でした。
一方、東恩納門下の宮城長順は、男子中学校で唐手を学んだ経験を持ち、そこで教えられる唐手と、自らの師である東恩納の手(福建拳法)との違いを理解しました。後年、宮城は東恩納の拳法を基に唐手を創案し、商業学校の教科として採用されます。
改変点の主なものは二つあります。第一に、平安二に倣って基本型「撃砕一」「撃砕二」を創案したこと。第二に、「開手」を「握拳」に改めたことです。相手の眼を突く、睾丸を握るといった技法は、学校教育には不適切とされたのでしょう。